2011年6月25日土曜日

6/24

梅雨の中晴れに、山が夕日で照り
映えており、
とても綺麗でした。

ざらざらした光の粒子が心地よい刺激です。
木々や、土や岩の塊である山は、山としてそこにあるはずですが、
僕にとっての実存はその山の光の粒かもしれません。


阪神淡路大震災の時。

一般のネットワークの物流では、渋滞や情報不足のため、
なかなか物資の供給がうまくいかなかった反面、

障害をもつ人々のネットワークは、
普段から情報網や助け合いの形をしっかり作っているので、
独自のルートで、いち早く物資を仕入れることができたそうです。

しかし彼らは、
それを自分たちの普段のあり方のおかげと享受するのではなく、
まず何よりも先に、炊き出しをして、日頃の恩返しにと、
地域の人たちに食べ物を配って歩いたということです。

もうひとつ、家がつぶれ、がれきの中から這い出た人が、
同じように埋もれてしまった自分の家族を助けようと、
必死でがれきをどけている時、

同じようにつぶれた、隣の家から助けを呼ぶ声が聞こえると、
迷わず、自分の家族をあとまわしにして、
その生存の可能性のある隣人の救助に身を投じたそうです。

今日、牧口一二さんという方の防災に関する講演を聴いて、
感動した話の一部です。

人間の本来とはそういうものであってほしいと信じます。


僕は、僕自身の体さえ、ほんとうを見ることができません。

しかしそこに感じるのは、ざらざらとまるで、
心地よい音が共鳴したような、やさしい光の粒であるのです。

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